何かわからないことがあったら、”ググる”。
いまやスマホを誰もが持っており、検索ツールで知りたい単語やことがらを入力すれば、それなりに満足のいく情報が得られる時代だ。
今日、仕事先でこんなやりとりがあった。
「あのー、寮のゴミ捨て場所がわからないんですけど」
最近入ってきた新人がこう尋ねてきた。
勤め先の寮は2棟あり、古い方のアパートにまとめてゴミを収集するんだけど、管理人のおばちゃんの説明が雑すぎて、わかりにくいし最初はぼくも迷った経験がある。
一応、
「管理人さんから説明は受けたよね?」
と聞いてみると、
「はい、聞いたんですけどわかりにくくて…」
とのことだったので、具体的に伝えることにした。
「アパートを出て左手に白い建物があるの、わかるよね?あれも社員寮になってて、その敷地内にゴミ捨て場があるわけ」
「あ、そうなんですね」
「アパート出てて、職場にいく道すがら、トタン屋根のボロボロの建物あるのわかる?」
「あー、いつもボーってしてるんでわかんないっす。」
(まじか)
「まぁ、そのトタンでできた小屋の向かいにあるコンクリートづくりの小屋に捨てるんだけど…扉がいくつかあって、燃えるゴミは一番左ね。」
「…要するに、コンクリートの小屋なんすね」
(…?なんかイラっとするなー。具体的に教える必要があると思って説明したら、要するにとか言われたんだけど。なんなんこいつ)
このミス・コミュニケーションの原因はいくつか考えられるんだけど、
その時に感じた違和感の一つとして、教えられたこと・相手の時間を割いたことに対する”感謝量”の少なさだった。
その人個人の問題といえばそうなのかもしれないけど、
僕たちが普段行なっている、
疑問・知りたいこと→ググる→解決
この流れには”感謝”という概念はほぼない、と気づいた。
上の新人とのコミュニケーションは、僕がグーグル先生としての媒体を担い、新人の
疑問・知りたいこと→ググる→解決
この自己満足を解決させただけにすぎなかったのでは?
と思い記事にしてみた。
これから先、人間より優秀なAIがぞくぞくと登場する中で、人が人に感謝する一部の概念が無くなってしまうのではないか。
- 人はなぜ、感謝をするのか
- インターネットや他の知識集合体が招く損失
これらをまとめていく。
人はなぜ、感謝するのか
”感謝”することについて考えてみる。
ありがとう。いただきます。助かったよ。あなたのおかげだ。
食べ物を食べた時や、親切にされた時、助けてもらった時に、人は感謝の気持ちを伝えるものだ。
その本質的な部分は、”幸せに生きたい”だろう。
性善説や性悪説があるが、人は幸福でいたい生き物。
少しスピリチュアルな話に足を突っ込むと、言葉によって細胞の活性化が変化するという実験がある。
カイワレ大根を2つ用意して、声かけを行うもの、無視するもので成長度合いを観察するというもの。
結果はあなたの想像通り。
「頑張って!」と声かけをした方の成長率は高く、味も良い。
無視した方は、逆の結果。
栄養剤などの投入があるかもしれないので、一度自分でやってみるのがいいんだろうけど。。
トルコのおじいさんの話
もう少し突っ込んで話をする。
あなたはさまざまな宗教について、どのような印象を持っているだろうか。
世界30ヶ国以上を旅してきたが、トルコのイスタンブールでハッとさせられた出来事があった。
かんかん照りの夏日に、喉が乾いたのでどこにでもあるようなタバコ屋に行き、冷たいペットボトル入りの水を買った。
ゆったりとした動作のおじいさんが店番をしており、お金を渡すとペットボトルとお釣りをくれた。
そして、手を合わせ目を閉じ、少し頭を下げながら”Thank you.”そうゆっくりと呟いた。
その場にいないと伝わりにくいことだが、そのときこれまでにないほど、
”ブワッ”と熱いものが体を覆った感覚にあった。
そう、これまでに経験したことのない”Thank you”だった。
トルコでは同じような感覚に何度かあったが、そのおじいさんがBest of Thank youだったなぁ。
この理由として、イスラム教が行う「祈り」が関わっているように思う。
毎日5回、時間をとってメッカに向かいお祈りをする。
積み重ねが大事という言葉があるが、この感謝量の堆積物が、おじいさんのBest of Thank youだと思うのだ。
その他にも宗教上毎日お祈りするような国は、他の国に比べて居心地が良かった。
将来的に言葉も数式化できれば、抽象的な表現をして誤解が生まれることを避けられそうだが、現代ではまだスピリチュアルな話に落ち着いてしまう。
まぁ、「ありがとう」って言われるとなんだか嬉しいよね。
これでいいんだと思う。
インターネットや他の知識集合体が招く損失
AI技術の発達は凄まじいものがあるが、いずれはシンギュラリティを迎え人間の知能を超える。
人が人に教わるという機会が極端に減っていくことだろう。
果てしてそのとき僕たちは、AIに対して人間のように「ありがとう」と言えるだろうか。
質問や疑問に対して、適切な答えが返ってくるのが当たり前。
「すいません、ちょっとわかりません」
なんて返答があると、どうなるだろうか。
人がわからないこと・疑問を解決してくれた相手に対して抱く、感謝の念。
人が生きる中で、どれほどの疑問を持ち、また人に質問し、会話をするのだろうか。
日常的な行為と言ってもいい。
それらが損失、減少するとしたら、決していい結果を導くとは言えないだろう。
若い子との会話から、習慣化やその先の将来にまで手を伸ばして考えてみた。
それではまた!
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